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『ケイト・プレイズ・クリスティーン』松江哲明さんトークショー

8月23日、アップリンクにて『ケイト・プレイズ・クリスティーン』上映後に行なった、

ドキュメンタリー監督:松江哲明さんのトークショーのレポートです。

―1月にこの映画を1日だけ上映する、というイベントをやったんですけれども、その時に松江さんはご覧になって頂いたんですよね。

はい、ツイッターでフォローしているなにかで見つけて、面白そうだなと思って、見に行きました。

期待通りというか、期待以上というか。「こういうのやりたい」っていうのが大きかった。ただ、こういうことをやるのはすごく勇気がいるなぁ、と思う。だいたい、怒られますからね。あと出資者を説得できないですよね、こういうのは。 見たら面白い、というのとはちょっと違う。生放送中に自殺した女性の映画、と考えると、多分ほとんどの人が再現映画を考えるわけで、でもその期待をある種裏切るじゃないですか。なぜそれを裏切ってまでこういう作り方をしないといけないのか、っていうその挑戦に、僕は作り手として「わかるぜ」という気持ちもあるし、でもそれってすごい難しいよね、とも思う。「作ってる人と一杯飲みてえな」みたいな気持ちになる作品。僕にとっては、「あ、こういうことを考えている人がいるんだ」というのが嬉しかったし、「僕もこういうの撮りたかったぜ」、とも思った。

■役を演じることそのものをテーマにする作品

―先週、批評家の渡邉大輔さんにトークショーにお越しいただいたんですけれども、その際に渡邉さんは、この映画はケイトがクリスティーンをプレイする映画、松江さんが監督されていた『映画 山田孝之3D』は、山田孝之さんが山田孝之さんをプレイする映画だ、とおっしゃっていました。

その話はなかなか難しいんですけれども…

ドキュメンタリーとは現実をそのまま撮ることだ、と思われている方が非常に多い。それはもちろん僕も否定しないですし、僕もそういう作品は作ってきた。

でも、自分が今作っているものとか、今面白いと思う映画は「ドキュメンタリー=現実を撮る」ではない。ドキュメンタリーも手法の1つ、みたいな。ドキュメンタリーはもはやジャンルではなくて、映画づくりの手法なんじゃないか、ということは、この作り手も考えていると思う。渡邉さんがおっしゃっていた『映画 山田孝之3D』とか『山田孝之のカンヌ映画祭』とかも、山田孝之が山田孝之を演じているのかというのは本人にしか分かりませんが、ドキュメンタリーとは現実をそのまま撮る、というものではないよ、ということだと思うんですよね。 こういう面白さがもっともっと広がればいいな、と思います。いまだに「ドキュメンタリーって現実を撮っているんでしょう?」という人が沢山いて、それが違うと、「やらせだ」なんて言われたりします。おいおいちょっと待てよ、みたいな。でもそういう気持ちも分からなくはない、というか。

僕は、役を演じることそのものをテーマにする作品に、すごく興味がある。ドキュメンタリーが昔フィルムで撮られていた時代とは全然違っていて、現代では、それこそ役者じゃない人-素人や一般人という言い方は語弊があるかもしれないけれど-、つまり誰もがカメラを持っていて、自分で何かを発信することができる。そしてそれを発信している時点で、彼らは演技をしたりする。

たとえばインターネットとか、ツイッターで発信する漫画とか。漫画の技術が無くて、アシスタントなどをやったことがない人でも、今これを伝えたい、と思ったことをツイッターで漫画にすることが出来る。それがすごくヒットして本にまでなったりとか、そういうことが増えている。そういう個人での発信をする人は作者になってしまうので、期待に応えるために何かを演じたりだとか、期待されるものを書いたりだとか、そういうことをするわけです。個人が外に向けて何かを発信する時に、演じたり、何かを意識するっていうのは、すごく現代的だなと思うし、面白い。そういうことがこの映画には詰まっているし、僕がやっている『山田孝之のカンヌ映画祭』とか『映画 山田孝之3D』なども、そういう考えの影響下にあると思う。

でもそういうのってまだまだ出たばかりの表現で、まだまだ「こういうものですよ」、みたいに定義できない。だから多分、この映画って宣伝にすごい苦労されてるなぁ、と思う。お客さんも、チラシとか予告編を見た印象とは違うものを見させられた、という気持ちがあると思うし、僕がコメントで書いたような、フェイクドキュメンタリーとか、ドキュメンタリーとかの境目がモヤモヤするというか。僕もこの映画を観てもやもやしたし、多分みなさんももやもやしたと思います。今それを僕がトークショーで上手く言えればいいんですけど、僕自身も分からないから。

―意図的にドキュメンタリーぽくない撮り方をしている、っていう点はありますよね。劇映画っぽく構図をきめていたり、なんで切り返せるんだろう、みたいなこともあったり。そういうのが、ただの記録で撮っているだけじゃないです、ということの主張というか。

僕はその辺は、観客に対するサービスだと思いました。クリスティーンの自殺を映画化しますよ、っていうのが一つ大きなフックとしてあるじゃないですか。で、その固定した構図が、いわゆるその「クリスティーンの自殺を描いた映画」ですよ、と。

特に銃を買いに行った後、店員さんが、でどうすりゃいいの?と言ったあと、ケイトがカツラを被ってもう一回やるっていうシーンがある。あそこがまさに劇映画。

劇映画に切り替わっているんだけども、それは彼女がそれまでに日焼けをしたりだとか、カラーコンタクトをしたり、カツラを被ったりなど、役作りをしているシーンを見せた上でやっていて、彼女が演じているんだ、ということがはっきりと分かる。あのシーンの面白いところは、受け手の鉄砲を売っているおじちゃんがそのままっていう部分ですよね。あの人が変わってたら、この映画は完全に劇映画だ、と観られるけれど、でもそうじゃない。観ている人は「この映画ってそのおじさんをそのまま登場させる映画なの?」となる。ドキュメンタリーなのか劇映画なのか、これは一体なんなんだ、という。

こういう部分はある種、作り手のサービスだな、と思います。いわゆる劇映画でいうNGシーンもそのままみせていたりしますよね。例えばあの階段のシーンももう一回やりましょう、ってやり直したり。この映画の中で劇映画として撮られたシーンみたいなものっていうのは、僕だったらやらない。むしろ、こういう「クリスティーンの自殺を描いた劇映画」っていうのは、観てる人に想像させておく。そこを入れていることで、分かりやすくなっているし、あとユーモアがあるな、と感じました。演じること自体がすごくコミカルに見える。だって、映画作りって変ですもん、やっぱり。カツラ被って、なにかの格好して、冷静に考えたら、役者って変だなって。演じるってバカらしいことだし、バカバカしいものなんだよ、っていうのを見せちゃっていて、そこにユーモアが生まれている。

■ラストについて

それを最後、どっちか分からなくしてしまう、という点も良い。「この映画どう終わるのかな?メイク仕込んでるっていうのもあるし、やっぱり自殺はやるんだろうな。」とは思うけど、どうするんだろう、と考えていました。最後、(最後の場面では)カメラが2つありますよね。片方の明らかにモニターを撮った画っていうのは、あれはテープに傷をつけてるんですよね。そうして、遂には発見されなかった自殺のテープを観ているような感覚にしている。と同時に、劇映画として撮っていた別アングルのフィックスの画が同じ時間軸で並んでいる、という。編集している時には、一回編集したものを、テープに傷をつけてもう一回並べているので、あれはものすごく、タイムラグがある。作る時にはすごく時間がかかるんだけども、見ている人にはリアルタイムに見せる。その演出が、前半から効いていて。このタイムラグとか、「あ、これをどうやって作っているんだろう」と思わせること自体が映画のカタルシスになっているな、と思いました。

すごい巧妙で、手持ちでラフに撮ってる風だけど、作り込んでるし、随所で考え抜かれている作品だと思う。それがちょっと悔しい。この次元までやられたか、みたいな。僕が同じようなことしても、今日見てる人は、真似したな、と思って黙っていてください(笑)。それほど真似したくなるところがいっぱいあるんですよね。

―劇映画風の場面と、ドキュメンタリーぽい場面とが交互に出てきていて、淡々と進んでいって、ケイトが調べて行くんだけど、最後の方にその劇映画とドキュメンタリーがあんまり上手く綺麗に混ざらない、という印象がありました。

僕はむしろ、上手く混ざっていたと思う。見ている人の頭に、本来作られるべきだったクリスティーンの自殺映像がどれだけ入っているかによって、この映画が分かりやすいかどうか、差があるかもしれないですね。この映画2回見るとより分かりやすくなりますね。ただ、1回目の方が衝撃は大きかったですね。ここでどうするんだろう、というハラハラ感があって。 この映画って、最後に突きつけたいのは、観る側なんですよね。単純に自殺の理由を探るのではなくて、この映画を見にきた人までも、『ケイト・プレイズ・クリスティーン』というタイトルで、生放送中に自殺をしたアナウンサーっていうのに興味を持った時点で、あなたたちも加害者じゃないの、と言われているような気持ちになる。それはこの映画のすごく良いところだと思う。この意地悪さが、この映画を見てモヤモヤしたりする原因になっているんじゃないでしょうか。この映画を大っ嫌いっていう人もいると思うんですけど、居ました?

―検索して、そういう人も居ました(笑)。

あ、居ました?居ますよね。 ミヒャエル・ハネケっていう監督の『ファニー・ゲーム 』っていう映画、あれに近いかもしれないですね。すごく暴力的なものを見たい、楽しんでしまう。というような。 『ファニー・ゲーム USA』っていう映画を女性と観に行ったんですけども、観終わった後すごい喧嘩して、ものすごい怒られたんですよ。こういうものを作る人が大嫌い、という。頭の良いフリしてるだけよ。とかすごい怒られて、その後の時間が台無しになった、という。それにちょっと近いかもしれないですね(笑)。この映画は。

―最後のシーンは監督達に向けてもそうですけど、カメラ越しに観ている観客達に向けての要素も強いですよね。

あのメッセージ自体も、実は用意された言葉じゃないのか、っていうのはあるじゃないですか。僕はそのへんはどちらでもいいな、と思うんですが。監督が台本を用意して、こう言え、と言った可能性もある。なぜそう思うかと言うと、エンドロールの時に映像があるじゃないですか、撃った後にスタッフとにこやかに片付けをしていて。あのカットがあることによって、そこも含めた映画だったのかもしれない、となりますよね。

だから、この映画嫌い、という人もすごい分かるんですよね。僕は好きです、勇気ある一本だと思います。この映画、作り手が無邪気な感じじゃない、ちょっと頭良すぎるというか…狙って色々やっていて、その塩梅が上手すぎる。

好きか嫌いか、分かれるのは多分あのカットです。クリスティーンは泳ぎが好きなんだけど、ケイトは泳ぎが苦手という話しがあって。(ケイトが海で泳いでいる時に)カツラが浮くじゃないですか。その時に、多分ディレクターの声なんですけど、「いや、これはそのまま撮っとけ」と入るじゃないですか。あの声をどう思うかが、この映画を好きか嫌いかの境目になっていると思います。あざといかあざとくないかの。あの声を残してるっていうところが、「あ、僕もそれやる。やっちゃう」みたいな。

■過去の事件を通して、今の時代を突きつける映画

こういう映画ってビデオじゃないと撮れない映画だし、最初に言ったツイッターとかブログとか、インスタとか、そういうネットを通して誰もが発信できる時代っていうのとすごい近いメディア論というか、今自分たちがどういう時代に生きているのか、っていうのを過去の事件を通して、2時間の映画として突きつけている作品、っていう風に観たので。今年上映している映画の中でも重要だと思います。

―ちょうど松居一代さんの動画が出始めた頃に公開したので、ネット上の感想にもそういうことが書いてあったりしました。

松居一代さんがこれ観るとすごい身につまされるものもあると思いますけどね。「私この気持ち分かる」みたいな。宣伝としては乗っかったらいいんじゃないですか(笑)。 まさに松居一代さんが動画を撮ったりするようなエネルギーって、この映画が「サディストめ」と言って突きつけているものと近いと思う。いつか松居一代さんはあの映像を撮ったことを、反省したりとか、考えたりすると思うんですけど。全然遠くない話だと思いますよ(笑)。一夜にして注目される、という。僕はむしろ怖いことだと思う。クリスティーンの生放送での自殺っていうところで、劇映画を普通にやるんだったら、そこへ至った真意だとか、過去の話っていう風にしか取りようがないけど、現代の映画に変えた、というところがこの映画の好きなところ。

僕はやはり、あの鉄砲屋のオヤジが良かったですね。何が良かったって、もう一回芝居撮りますよっていって、言ってることがまったく変わんなかった。リボルバーおすすめだぜ、っていう。この人おんなじこと言うんだ、っていうのが、僕はすごい良かったですね。

もう一個この映画の良かったところは、三十代の女性(ケイト)が、海で言われるじゃないですか、もう遅いぜ、みたいな。ブレイクしなかった女優が役を掴んでやってる、そこの部分もすごい良かったですね。

―ケイトは若手女優みたいに見えるけれど、でも実は30を過ぎていて、まだパッとしなくて、みたいなところは感じますよね。

誤解を生みかねないですけど、こういう、よく分からないけど「役者です」って言っている、見たことないような人っているんですよね。それは女性って限らずに、男性も。なにか表現に関わりたい、という人たち。ケイトもそういう感じで、自分には演技しかないと思ってる。そこにある種クリスティーンと重ねている部分もあると思います。こうしか生きられない、でもまだ社会に接点がない、認められてない、という焦り方っていうか。必ずしも成功とは結びつかないけど、それで生きていくという。この映画は、色んな見方が出来るな、と思う。

こういう映画で大事なこととして、見たあとにテレビでニュースを見るとすごく変な感じになる、ということもあると思う。天気予報見ただけでもこの映画のことを思い出して、ここに立ってる人どんな気持ちなんだろう、とか考えてしまうようになる。そうなることがすごく大事だと思いますね。それこそ松居一代さんてどういう気持ちでああいう動画撮ったの?とか。 こういうドキュメンタリーかフェイクかよく分からないものっていうのは、観た人がその後、現実の何かを見たときにまたモヤモヤしたり、そこにリテラシーを得られる、という点が大事だと思う。

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